ブログ「サイバー少年」

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数学の勉強について雑記…

今回の記事は本当に雑記です。
話を体系的に書くという意識がまったく感じられないものであります。

つまりはクソ記事であるということをご承知ください。


私は最近、数学が好きなので、数学の特に数学基礎論という部分について勉強したり考え事していたりするのですが、

…もしかして自分には数学の才能がないのではないかと思ってしまいますね。


まず数学において重要な、発想力が私は大きく欠如していますね。
だから証明しろとか言われても、どのようにすればいいのかわからない。

答えを見ずに自分の力でなんらかの知見を生み出すことができないのは、数学をやる人間としてどうかという感じですね。

無から何かを探すというのは、すごく考えのフィールドが広すぎて、探索しきれないということですね。

まあ、このフィールドの広さの中で知見を生み出すためには、問題を小さく分割してちょっとずつ考えて、
小さな結論をひとつずつ出していって、最後に大きな結論を出すというのが必要になると思うんですが、

なんか私の場合、大雑把になってしまうということですね…。
たぶん、脳のワーキングメモリが足りないので、細分化しても忘れちゃうんですね。

全体を一気に考えないと頭の中のイメージが崩れてしまうというか。
でも、全体を一気に考えるなんて、大きすぎて出来ないということです。

さらに、有限のものに対してはイメージできるとしても、無限のものはイメージ出来ないので、苦手ですね。

たとえば数学的帰納法とかも、苦手です。


さて一方で、すでに答えが書かれてあるときに、答えを読んで理解する力というのは、まあまあかなと思うのですが、

それでも理解力も足りないと、思ってしまいますね…。

いや、なんというか書かれてあるイメージが、日本語に書き下せる場合と、日本語にできない場合があると思うんです。

日本語で考えられるものであればわりと理解できるんですが、日本語にできないものは苦手ですね。
イメージをイメージのままにして考える力がないんですかねぇ…。



イメージを日本語にできない場合ってたとえばなんなのよ、ということなのですが、
たとえば私が「これ日本語にできないな」と思ったのは、公理的集合論ZFの一階述語言語で書かれた公理ですね。

つまりは、一階述語言語が容易に日本語にできないということかもしれないですが。


「すべての元において、すべての元において、Pを満たすなら、ある元が存在して、すべての元において…」って

いい加減にしろバカヤロー、と言いたくなりますね。
これもワーキングメモリが足りないので、読み切れないんですかね…。


ワーキングメモリといえば、大昔、某ワーキングメモリを鍛えるゲームソフトのパクリを、このブログでも作ろうとしたことがありましたね…。
(記事「新作ソフトの制作決定!」を参照)

結局、飽きて頓挫してしまいましたが。
ロジックは作ったんですが、視覚的なGUIを作るのが面倒くさくてやめたんだったと思いますね。



あと、公理的集合論ZFといえば、このまえ正則性公理というのを見ていて思ったことがあるので書きます。

この公理、ジョン・F・ノイマンが作ったらしいですね。
ノイマンは、いたるところに登場しますね。

アインシュタインと並んで20世紀最大の天才だとも言われていますね。

アインシュタインが結構やさしめの性格をしているのに対して、ノイマンは多分「お前らバッカじゃねw」みたいな発言をするような性格だったんだろうと思うので、その対比も面白いですね。


アインシュタインはゲーテルと仲が良かったらしいですね。
あと、Wikipediaによればノイマンもゲーテルのことは尊敬していたらしいですね。

ゲーテルは物理学もやっていたみたいですが、数理論理学で有名な人です。
なんか論理学やってる人って、数学より物理学者が多い気がしますね。

数学は定義がきっちりしているのに対して、物理学のほうはきっちりしていない自然界を考察しないといけないので、きっちりさせるツール、すなわち論理学が必要だったんじゃないかと思います。


私は高校生なので授業を受けていても、高校数学は定義と演習の繰り返しで、理論を展開することがあんまりないということで悪名高いですが、

高校の物理学はまず最初に経験則として理論の出発点を定めて、どんどん演繹していくという形式なので、
少なくとも高校では物理学のほうが理論を学んでいる感じがありますね。



そういえば公理的集合論ZFの正則性公理の話をしようとしていたんですね。
まず、どういう公理かというと、そのまま一階述語言語で書けば、…と言っても色んな書き方があるのでWikipediaのものを借りて若干修正しますが、

∀A(A ≠ ∅ → ∃x∈A(∀t∈A¬(t ∈ x))

という公理です。

このように量化子の変項に∃x∈Aのような制限をかけるのは、私の知っている一階述語言語ではないのですが、
まあ厳密には「∀x(x∈A→」とか「∃x(x∈A∧」の略記だと思いますね。

この公理、直接的に日本語に書き下せば、

すべての元Aにおいて空集合でないならAはある元xを含んでいて、Aのすべての元tについてxはtを含まないものである

ということですね。意味がわからない。

イメージを日本語にするというのは、こういう意味ではないんですよね。
これでは日本語からイメージに戻すことができないです。


だから私も、まだこの公理の言わんとしていることを理解することができないんですよね…。

この公理は集合の無限降下列というものを存在し得ないものにするために作られたそうで、

無限降下列というのは、ようするに集合の中に集合が入っていて、その中にも集合が入っていて、さらにその中に集合が入っていて…というのが無限に続く状態のことです。

たとえば自分自身を含む集合A、つまりA∋Aを認めてしまうと、

A∋Aですが、ここで右のAはA∋Aなので、A∋A∋Aとなります。
さらに最後尾のAもまたAを含むので、無限降下列となります。

なんかこれが、数学にとって邪魔らしいですね。


しかし、正則性公理があることによって、これはすべてのものについて空集合でないならある条件を満たしていないといけないわけで、

ここでA∋Aであるので、∅∋∅はないようなので、Aは空集合でないわけで、よってAはある条件を満たしていないといけません。

その条件とは、Aが含む元の中に、別のある条件を満たす元xが入っていないといけないという条件です。

その別のある条件とは、xがAの持つ要素を一切持っていないという条件です。

ここで、A∋Aの左のAをA、右のAをxと書いたときに、
Aはxしか含んでいないと仮定すると、Aの元を含まない元がAの中に存在していないといけないわけですが、Aはxしか含まないので、

ようするにxはAの持つ要素を含んではいけないことになります。

しかし、xはAと同じであって、Aはxを含むので、xはまたxを含むことになりますが、それはxがAの持つ要素xを含んでいるということを意味するので、正則性公理に違反します。

なので、そもそもA∋Aがありえないということにできるというらしいのですが…。


でもAはxしか含んでいないという仮定(つまり A = {x})がどうなんでしょうかね。
Aがx以外にどうでもいい元aを含んでいて、そのaが、ある条件を満たす元が存在するということの受け皿になれば、正則性公理に違反せずに無限降下列を持つことが可能だと思うんですけどね。

私は図で考えたことなので、イメージ図を作成いたしました。
矢印は指している側が指されている側を含むという意味です。

正則性公理に違反しないのでは?
正則性公理に違反しないのでは?


あと別のケースで、A∋B∋A∋B∋…というのはどうなのかとも思って、これは“直に存在していたらアウトなもの”を集合で包んで存在を隠すようなイメージで、正則性公理に違反せず無限降下列を持てると思うんですが、

しかし、これらのような状態も不可能であるらしいです。

なぜなのでしょう????
誰かバカにも分かるように教えてください…。



さて、ここで一度ペンを置いて(キーボードですが)、しばらく休憩したので、
大きく話題を変えて、全順序関係について書いていきたいと思います。

全順序関係というと、順序関係の特別な場合で、
ある集合が順序関係をもつというときに、集合の元を一列に並べられるとは限りませんが、全順序関係の場合は一列に並べられます。


全でないただの順序関係は、どのように並べられるのかなと考えていたんですが、こういうのは図で考えたら良さそうですね。

グラフ理論というのがありますが、グラフを使って順序関係を表すこともできるのでないかと。
実際にハッセ図という、順序関係を図で表すものがあるようです。

まあ、なんとなくな発言ですけども、
全でない順序関係も、推移律があるので全体的に小さいもの、大きいものと並べることは可能なんですが、

一列ではなくて、列が分岐する場合とか、分岐した列がひとつに結合される場合とかが考えられると思いますね。

並行した列にあるものは、どっちが大きいとか、どっちが小さいとか判別できないです。


それに対して、あらゆる二つの元において、どっちかが大きい、という条件を付け加えたものが全順序関係となります。
なお、この条件を全順序律といいます。

全順序関係を図で表したら、あらゆるものを同列上で判別できる、つまり一列に並んでいるということですね。


全順序律を一階述語言語で書くなら、全順序関係が定義された集合をP、G(a,b)をbがaより大きいと定義して、

∀x∀y(x∈P∧y∈P → G(y,x)∨G(x,y))

と書くことができますね。

ところで、これではG(b,a)かつG(a,b)という状態もありえるかもしれないですが、そういう場合は反対称律によってa = bとなりますね。

これによれば、同じもの二つに対してもGが成り立つということですから、反射律のことですね。


反射律をなくせば以上以下の関係だけじゃなくてより大きい、より小さいの関係も順序関係にできるのに変だなと思っていたのですが、

反対称律と反射律はセットのようなものなのかなと思いますね。
というかまんま前提と帰結が逆の関係になっている条件ですね。

反射律と反対称律を無くして、G(b,a)かつG(a,b)が成り立たないという条件をつけたら、より大きい、より小さいを表せる関係が作れるんじゃないですかね。


ところで、上の全順序律を満たす順序関係であるということは、全順序関係であるということだったわけですが、

全順序関係の特徴として、一列ということがあるわけで、それをもっと直接的に、一階述語言語で表現するものはないだろうかと思いました。

つまり、全順序律と同じように、一列であることを示す条件であって、それは全順序律と同値なものになるのではないかと予想がつきます。


図で考えれば一列であるとは、任意の元に対して、唯一の元が繋がっているということですね。

つまり、任意のaに対してG(a,b)となるbが唯一ある…と言いたいところなのですが、
推移律によれば直接繋がっていない元を相手にしてもGが成り立つことがあるはずなので、まずGという述語を使うのがナンセンスであります。

bがaより大きくて、bとaが直接繋がっているということを表す述語をC(a,b)とします。

これは言い方を工夫すれば、bがaより大きくかつ、aより大きくてbより小さい元(aとbの間に入る元)が存在しないと言えます。

つまり、
C(a,b) = G(a,b)∧¬∃x(G(a,x)∧G(x,b))
とします。

このCはとっくに研究済みのようで、これはbがaを被覆するというそうです。

さて、よって任意のaに対してC(a,b)となるようなbが唯一あるということが、全順序関係であることの条件になりそうだと思いました。

唯一あるというのは、一階述語言語では多少表現しづらいですが、
まず条件をみたすものが存在するということを書いて、その中で、それ以外のものはすべて条件を満たさないと書きます。

∀x(x∈P→∃y(y∈P∧C(x,y)∧∀z(¬(z=y)→¬(z∈P)∨¬C(x,z))))

となりますね。
これが、全順序集合であるという条件になるだろう…と言いたいのですが、

よく考えてみると、一番大きい元というのがあるはずで、その元より大きい元は存在しないから、その場合は上の式の反例になってしまいます。

一番大きい元は、そのままですが最大元と呼ぶらしいですね。
上の式に最大元の例外を設けなければなりません。

その最大元の扱いにちょっと疑問を抱くのですが、最大元に名前をつけてやってもいいんですかね。

最大元をmだとか言ってしまうと、順序関係とセットでmを与えないとならなくなるので、全順序律と同値であるとは思えないんですよね…。

じゃあ、名前をつけなければいいのでしょうか。
つまりは存在量化子で最大元の存在を述べればいいのでしょうか。

その場合は最大元は唯一のものですが、(唯一でないとしたら全部が最大元だと言うことすらできるので)
それを述べようとするとすごく論理式が長くなると思うので、まず∃x(φ(x)∧∀y(¬(y=x)→¬φ(y))の略記として∃!x(φ(x))を定義しておきます。

そして、最終的には、
∃!m(m∈P∧∀x(¬(x=m)→x∈P→∃y(y∈P∧C(x,y)∧∀z(¬(z=y)→¬(z∈P)∨¬C(x,z)))))

ということになりますね。
…長い。唯一存在することの略記をやめればもっと長くなります。

でも今思ったのですが、この論理式においては唯一ということに注意しなくても単純な存在量化でも、存在は唯一であることしかありえないんじゃないですかね。

まあ怪しいので、唯一であることを明示しておきますが。


それで…思ったのですが、そもそもここでは最大元の存在を言っているけども、果たして最大元が必ずしも存在するのか、という問題がありますね。

つまり、Pが無限集合だった場合に、それでも最大元があると言っていいのかは、
無限集合をどう扱うべきなのか私はよく知らないので、なんとも言えないのですが、

少なくとも全順序律のような述べ方であれば、Pが有限集合であれど無限集合であれど区別する必要はありません。

そういう違いを考えれば、もしかしたら上の論理式が述べる条件と、全順序律は同値ではなくて意味するものが多少変わってくるのかなとも思えますね…。


ちなみに、最大元がPの中に入っているのに対して、Pに入っているかに関わらずPのどの元よりも大きいものとして上界という概念があるようなので、無限集合の件もこれと関連しているかもしれません。



というわけで、今回はめちゃくちゃ雑でしたが、数学の勉強の感想みたいなものを書きました。

こんなめちゃくちゃな記事書いたのは久しぶりですね。
しかし、かなり時間はかけて書いています。

クソ記事書くのも大変なのに、どのようにして良質な記事を書こうというのか。

tag: 数学 集合 順序 関係 論理学 述語論理 公理 勉強 偉人 ワーキングメモリ

コメント

CRTモニターは使ったことありますか。
CRTモニターの画質等はコンピュータ関連として是非とも抑えておくべきではないでしょうか

  • 2016/05/30(月) 00:42:01 |
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Re: タイトルなし

CRTモニターですか…。
ずいぶん幼いころに見た気がしないでもないですが、そんなに使ったことないですね。
ご参考にさせていただきます。

大学でZFを勉強していて,ちょっと調べていたら,高校生も勉強していたのでおどろき.
> A∋B∋A∋B∋…というのはどうなのかとも思って
背理法による.A∋B∋A∋Bなる集合A,Bを認める.
対の公理より,S = {A, B}は集合.空集合の公理より明かに S ≠ ∅.ゆえ正則性公理から∃x∈S(∀t∈S ¬(t ∈ x)).
xの候補はAかB.しかし,x=Aとしてt=Bのときダメ.x=Bとしてt=Aのときダメ.
ゆえに∃x∈S(∀t∈S ¬(t ∈ x))なるxが存在しない.よって,正則性公理に矛盾.
よってA∋B∋A∋Bはダメ.□
一般に,A0∈A1∈...∈Anは同じ論法で公理に反することを導けます.
ようは,無限降下するような集合から公理に反するような集合を作ればいいわけですね.
その前の図も,結局は,A∈x∈A∈x...なので同様です.

  • 2016/06/16(木) 03:22:56 |
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A0∈A1∈...∈Anじゃなくて,A0∋A1∋...∋An∋...でしたね.失礼.
そして,今回は背理法で証明しましたが,なんだか,背理法(つまり排中律がトートロジーである)ことを認めない一派(直観主義)がいて,背理法つかわない場合の証明は,ちょっと思いつけない…….

  • 2016/06/16(木) 03:49:07 |
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  • hoge #-
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Re: hoge

おーなるほど、分かったような分からないような…。
A0∋A1∋...∋An∋A0となる無限降下列に対して、S = {A0, A1, ..., An}となるようなSの存在を言うのがミソなわけですね。
数学できる人の、この発想力はどこから出てくるんでしょうね…。

あと、正則性公理だけじゃなくて、他の公理も使うわけですか。
どちらも自明と言っていいような公理ですけども。
まあ、背理法はどの命題を否定して矛盾を解消するのかという問題があると思うんですが、これらが公理として定まっているおかげで、否定できるのは無限降下列の存在だけに絞られるというのはありますね。

A∋x∋A...も、この集合自体がダメなことは言えないにせよ、ようするに集合を仮定したら矛盾、というよりか無限降下列を仮定したときに矛盾ということなんですね。


直観主義論理では、ここでは私が勉強した自然演繹のNJに限定しますけども、
¬φから矛盾が導けるときにφを導出するのは排中律がないといけないんですが、
φから矛盾が導けるときに¬φを導出するのは否定導入という推論規則で、排中律なしでも大丈夫です。

この証明では後者のパターンだと思うので、これはNJにおいても成り立つ証明だと思います。
もっとも、まずは証明を形式化しないと、どのようなパターンになっているのか判別しがたいですけども。

>直観主義論理では、ここでは私が勉強した自然演繹のNJに限定しますけども、
>¬φから矛盾が導けるときにφを導出するのは排中律がないといけないんですが、
>φから矛盾が導けるときに¬φを導出するのは否定導入という推論規則で、排中律なしでも大丈夫です。

ええっと,NJについていえば,背理法は否定導入と二重否定除去が必要となります.
(¬φを仮定して⊥を導出して¬¬φを推論し,¬¬φからφを推論している)
二重否定除去は,(Coqとかで証明するとおもしろいと思いますが)排中律と同値です.
ゆえ,二重否定除去の存在を認めた瞬間に,排中律が入りこんでしまうのです.

  • 2016/06/19(日) 21:41:53 |
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  • hoge #-
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Re: hoge

そうですね。
NJにおいて背理法は排中律を使わないとダメですけど、
上の無限降下列が存在しないことの証明は、ただの否定導入じゃないかなと思って書いたのですが、どうでしょう。

hogeさんのほうが詳しそうなので、あまり断言しづらいですが…。
情報系の学部の人ですかね?数学科かな?

ああっと,たしかに,ここでは存在の仮定から矛盾を導き,否定を得るのだから,否定の導入だけで大丈夫そうですね.気が付きませんでした.

> 情報系の学部の人ですかね?数学科かな?
情報系の学部です.

  • 2016/06/20(月) 00:47:43 |
  • URL |
  • hoge #-
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